灰谷君の想い出

このパンフレットは友人が送ってきました
新米教師の私が昭和19年 朝来郡(あさご)中川村の寺に
集団疎開しました。6年と4年の児童と一緒に一年寝食を共にしたのです。
灰谷君は小柄に色黒でしたが快活で気転がききリーダーとして
よくやってくれました。夜の自由時間に日記を書き見せてくれましたが
文字が丁寧で美しく、私は◎をたくさんつけたことが心に残っています。
荷車を曳いて野菜を各部落へとりにいった帰り、橋げたに車輪がはまって
動けなくなりました。その時灰谷君が「荷物を下ろせ」と言いました。
降りつもる雪の上に大根をおろし全員で車を動かしました。
昭和20年に入るとコメの配給は減り、野菜も大根ばかり藁草履が
野菜のかわりのこともありました。3月17日の神戸空襲で学校も児童の
家も私の家も焼失しました。戦後貧困にもめげず自分の道を切り開き
死後もこのような展覧会を催される文学者になられた事を嬉しく思います。
雑炊をすする苦しい疎開生活も今は懐かしく思いだされます。
入居者 E.M 

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